昭和30年の11月、第1回浅間火山レースにて、ライラックの250㏄でデビューWINをやらかしたのが16歳のイトーフミオ君。
とゆーエピソードは、クロムウェルを被っておられるヒゲライダー様ならもれなくご存知の話だけど、その後BMWの輸入元に可愛がられたフミオ様は、そこんちが販売してたハーレーでもレースに出てたのだ。
昭和34年10月23日。
MCFAJの第3回全日本モトクロス大会で900㏄のスポーツスターをかっ飛ばして、8周のオープンクラスで見事優勝。
6周までヤマハの250でトップを引いたSRSクボの久保和夫さんに思い出を伺いましたら「背丈が180センチぐらいあっていつも堂々としてて、BMWもハーレーも軽々と走らせていたよ」と教えてくださいました。
第2回浅間火山レースと伊藤史郎
アメリカかぶれのSOBとしては、イトーフミオさんがハーレーに乗っている写真を貸してもらえた事が嬉しくて仕方ない。
しかし、このスポーツスターに関するインプレッションとかレースリポートは見つかっていないので、当時モーターサイクリスト編集部にいらした長崎タツヤさんによる「伊藤史郎論」を昭和34年3月号より抜粋して転載させて頂きます。
現在なら、メイカー有ってライダー有ってのは雑誌の立場なんですけど、65年前は「ペンは剣より強し」みたいな風潮だったことが匂って参ります。
●写真提供=八重洲出版
【以下Text=長崎達哉(八重洲出版)元モーターサイクリスト編集部】
1957年、すなわち一昨年の10月19日と20日の第2回浅間火山レース、これはまだ記憶に新しい。
浅間高原に1周9.351kmの専用コースが新設され、わが国で初めての本格的なロードレースを目にすることができた日であった。
そして、レース初日のあの日、19日は、そのような日本モーターサイクルレース界の黎明を飾るに相応しいレース日和であった。
突き抜けるほど真っ青に晴れ上がった秋空、その晴天のもと広大な高原の中に、ただひとすじ静かに横たわるコースは一種非常な、言い知れぬ美しさを見せていた。
が、やがて、このコースに勝利の歌をよび、続々と詰めかけた観衆の目を奪い耳を奪ったのが、あのジェットライクサウンドのヤマハであった。
元々、事に125㏄、250㏄のレースに関してはヤマハ対ホンダの決戦と言われていたのであったが、いざフタを開けてみるとホンダは痛恨、両クラスともヤマハに敗れ、ヤマハは小気味よい「ジェット機のような排気音」を秋晴れの広野に欲しいままに轟かせて突っ走り、観衆を魅了させ勝利に酔ったものだ。
それらヤマハ勢の中でも、ひときわ観衆の度肝を抜き、驚嘆せしめたのがライトクラス於ける車番60の疾走であった。
事実60番の走りっぷりは凄まじかった。
1周目から飛び出してトップを奪い、以降2番手3番手を引き離し、人車一体、文字通り疾走し独走した。豪快というか胸のすくようなその疾走は、誰の脳裏にも後々まで残って思い出す、そんなにも印象的なものであった。
しかし7週目においてこの60番はエンジン焼き付きで脱落。それまでの走りっぷりが凄まじかっただけに、彼の脱落は何か花火の散るに似て呆気なかった。
一瞬の、束の間の豪華な夢、より以上にそんな思いを観衆に与えた。
この60番が伊藤史郎であった。
【ここまでText=長崎達哉】
《続きはSOB magazin #25 誌面にて読めます》
本誌では伊藤史郎さんの知られざるエピソードやアメリカ、カタリナGPの話など盛りだくさんです。
税込み220円で販売中。
SOB magazine 25号 主な内容
●メイン記事
伊藤史郎の始まり~16歳の若さで浅間火山レースに出場しデビュー・ウィンを果たし、世界GPでも活躍を見せた、伊藤 史朗選手の記事
●2023全日本モトクロス選手権第8戦関東大会
●2023全日本トライアル選手権シリーズ第8戦
など
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